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チベットの祈りin 定福寺

 2015年、定福寺で『チベットの祈り ~チベットフェスティバル2015 チベット文化と豊永郷文化の交流~』が開かれました。定福寺にタシルンポ寺の管長をはじめ、12人の僧侶にお越し頂きました。どうして定福寺にお越し頂けることになったの?と思われる方が多いと思います。高知市内の仏教会のメンバーでチベット仏教に精通している、真言宗の高野寺島田善裕さん、浄土宗の称名寺早瀬源宙さん、浄土真宗の弘願寺花岡正覚さんとのご縁のお陰でした。

チベットへ
 私が初めて、チベットを訪れたのは2001年、27歳の時でした。その後2004年、弘法大師が入唐された歳と同じ31歳に再びチベットに行き、数回訪れることとなりました。またネパールやラダックなどチベット文化圏へも数回訪れる機会を得ることができました。初めてのチベットは観光的に成都からラサ、ツェタン、シガツェ、ギャンツェを訪れ、多くの寺院を巡りました。またチベット人のガイドを通じて多くのチベットの人々と触れ合う機会がありました。当初、二度と来られる場所ではないと思い、歴史や地域についてノートにまとめ、ある程度の知識を持ち訪れていました。二度目には、旅行会社の風の旅行社さんに少し無理を言って、観光客が訪れないような寺院を訪れたり、民俗的な視点からチベット人の生活を覗き、オールドティンリーを超えてネパールに向かいました。
 私がチベットに最初に興味を持ったのは、信仰の様子でした。次に僧侶の学び方、そして神と仏の関係性やその信仰の様子の3つでした。
 チベットには明治以降日本人の僧侶が訪れています。日本に伝来した経典の多くはインドから中国や朝鮮半島を経由し伝えられました。インドのサンスクリット語から漢語に訳されたものです。一方チベットは、インドや中国との様々な交流がありました。その中で1203年にインドの仏教の大僧院ヴィクラマシーラがイスラム教によって滅ぼされてしまいました。そして多くの僧侶がヒマラヤ山脈を越え、チベットに経典と共に訪れることとなりました。そして多くの経典がサンスクリット語からチベット語に翻訳されることとなりました。日本には伝わらなかった経典や違った訳などの経典などありました。それらを求めて僧侶や研究者がチベットに渡ったようです。現在でも漢文の経典とチベット語の経典を比較しながら研究を進める研究者もいるようです。

密教
 チベット仏教や真言宗、天台宗は、チベット密教、真言密教、天台密教と言われるように、密教を信仰する教団です。密教とは秘密仏教を省略した言葉です。「秘密なのですべてお話できません」というものではありません。小学生に高校生の数学を教えることを想像してもらえれば良いと思います。いきなり小学生に高校生の微分積分は理解できません。段階を経て理解することが出来ます。だからといって高校の数学を小学生に隠しているのではありません。強引に教えてしまうと勘違いやその本質から逸脱する可能性が多分にあるため、伝える側も学ぶ側がそのレベルになっているかという判断が必要になるということです。真言宗では、各段階により行われる修行や儀式が現在も引き継がれています。真言宗智山派の本山では毎年、僧侶になるための修行や儀式が執り行われています。それらの修行を行うためには、まず明師を見つけることが重要だとされています。
 チベットでは僧侶の修行階梯を表したものに『菩提道灯論』があります。『菩提道灯論』の中で仏教の修行階梯について、帰依・発菩提心・菩薩律・般若行・密教の順に行うべきだと説かれています。この教えはチベット仏教の僧侶には大切なものとなっています。定福寺を訪れた僧侶はすべて高僧でした。タシルンポ寺に帰れば、多くの弟子を持つ僧侶たちでした。彼らの話によると、小さい頃から多くの経典をひたすら暗記をするということでした。よって部派仏教とよばれる経典から密教経典まで段階的に学び理解をしていくのだと思います。彼らに問いかけるととても分かりやすく、しかも丁寧に返答が返ってきます。一人ひとりが深く学んでいるという根拠があるためだと思います。 
 密教とは?という問いに、頼富本宏師は「内面における聖俗の一致を前提とする神秘主義と、それを実感するために対象に向かって働きかけていく呪術の二つの大きな特徴をもつ仏教の一形態」と述べています。
 中期密教の『大日経』『金剛頂経』を中国の恵果和尚より相承した人物が弘法大師であり、日本に帰国後に真言宗を開きました。後期密教の『時輪タントラ』までが伝播したのがチベット密教でした。田中公明師は『時輪タントラ』について、「『時輪タントラ』はインドで最後に成立した密教聖典であり、宇宙論と生理学説を統合して巨大な思想体系をうち立て、仏教が発展させてきた様々な理論と実践体系の総決算」と述べています。

密教経典系譜図2021(PDF)

師資相承の仏教
 密教を学ぶ段階までいくためには、必ず師の存在が必要です。密教は言語に現せない仏の悟りを説いたものとする先生もいるように、密教世界に入り体感しなければ理解できないことが多くあります。文字を読むだけでは真の理解は出来ないということです。よって師からの口伝も含めて、相承は極めて重要なものとなります。段階ごとに師からの相承があり、儀礼があります。チベットでも日本でも密教では、師への帰依が重要です。真言宗も明治の廃仏毀釈までは、師資相承であり親子の血縁ではありませんでした。定福寺ももちろん同様です。

タシルンポ寺
 定福寺にお越しいただいた僧侶は、タシルンポ寺の僧侶たちでした。私もタシルンポ寺を訪れたことがあります。ラサのポタラ宮殿にいるダライ・ラマ法王とタシルンポ寺のパンチェン・ラマは深い結びつきがあります。
タシルンポ寺について、僧院から頂いた原稿の一部を紹介したいと思います。

~タシルンポ僧院~
チベットにおいて重要な精神的指導者であるパンチェン・ラマ師のいる大本山です。同僧院は1447年にダライ・ラマ1世ギャルワ・ゲンドゥン・ドルップによって、チベット第二の都市であるシガツェに設立されました。中央チベットの四大僧院の一つであり、ゲルク派(黄帽派)の歴代ダライ・ラマ法王およびパンチェン・ラマ師の監督と保護の下に置かれてきました。またマハーヤーナ仏教哲学およびタントラの分野において何千人もの著名な学者を排出してきました。同僧院はパンチェン・ラマ4世ロブサン・チェキ・ギャルツェンの御世に3,000人を超える僧侶を擁していました。1959年の僧侶数は5,000人に達し、チベット外に住む系列の僧侶も2,000人を数えていました。しかし、1959年に中国がチベットに侵入し、更に1966年から1980年まで文化大革命が続いた結果、チベットの僧院は破壊され、貴重な経典、仏像、仏画が失われてしまいました。多くの僧侶が殺害あるいは投獄され、ダライ・ラマ法王に従って亡命することができた僧侶は僅か250人だったそうです。
1972年に至り、タシルンポ僧院はダライ・ラマ法王14世の支援によって南インドのカルナータカ州に再建されました。タシルンポ僧院には、チベット、およびヒマラヤ地方のスピティ、クヌ、ラダック、アルナチャル出身の僧侶が暮らしています。チベット人居留区バイラクッペの中心的な存在となり、多数のトゥルク(転生者)を含め300人を超える僧侶がここで学習し、様々な宗教的活動を実践しています。
多くの僧侶は、投獄や死の危険に直面し、チベットの外で仏教を実践するためにチベットを逃れて来ています。
1960年には多くの年長のラマや僧侶がチベットを離れ、インド、ネパールおよびブータンに新しい僧院を建設することに力を尽くしました。故パンチェン・ラマ師はチベットを離れなかったため、タシルンポ僧院出身の年長のラマも、多くはチベットにとどまりました。従って、他の亡命僧院は年長のラマの指導によって拡大、発展を遂げてきたのに対し、タシルンポは不利な立場に置かれてきました。タシルンポ僧院は非営利の慈善団体として、仏教の様々な側面を広めている一方、近代的な教育をも行っています。タシルンポ僧院は、最善の近代的教育を提供するとともに、チベットの伝統を深く理解し、これに親しむことを教えようと努力しています。