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聖天尊浴油祈祷
定福寺の聖天尊は高知の五台山竹林寺より伝えられた仏様です。
浴油祈祷は聖天尊の秘法の内最上の祈祷であります。
浴油についてその伝説に『昔、聖天尊がまだ難羅山に陣取って、魔神として種々な障碍をし暴れ回っていたので、他の神々から憎まれ毒物を喰らわされ苦しんでいたのを女天である十一面観音様がこれを哀れみ、聖天尊に仏法に帰依する事を誓わせ、その山中にある油の池に連れて行き、その油を加持して聖天尊の頭より灌がれ、それにより悪い毒物が除かれ、同時に悪神が善神となり、十一面観音様と力を合わせて世の中の苦しんでいる者を救う誓願を立てた。』ということです。
浴油の御祈祷は必ず七日間修法(11月10日~11月16日)致します。
この期間は寺内の全ての者が精進料理を食べ、修法する行者(住職)は別棟に一人で住みまた各座(一日三座)沐浴をして修法をいたします。
よってこの期間は本堂への参拝は御縁了いただいております。
この浴油の御祈祷の申し込みは年中承っております。また電話での申し込みも承っております。
聖天尊は、開運福寿、家内安全、当病平癒等の所願成就を願う人々により信仰されております。
当山のお檀家さんでなくても、広く北海道から九州の方々による御祈願の申し込みがあります。
高知県の山奥にある定福寺にこのように御祈願の申し込みが殺到するかというのは、全国のお聖天さんをお祭りしているお寺でも珍しく、御浴油祈祷が続いているためです。
定福寺への聖天尊伝来
江戸時代末期高知市五台山竹林寺に、高僧松窓律師が在した。松窓律師は、師資相承の持念仏として聖天尊を護持礼拝していた。その弟子の当山28世進甲師が定福寺住職に晋山する際に、師より持念仏として「尊像」を授かった。進甲師は多くの方がご利益を受けられるようにと、御浴油の祈祷を厳修することになったのが「栗生聖天」の始まりである。
それ以来定福寺では、毎年11月10日の開白から16日の結願まで御浴油の祈祷が厳修されている。祈祷は1日3座あり、その都度行者は体を清め、承仕も衣帯をつけ、供物の交換などを行う。秘仏であるため行者が祈祷中は御簾(みす)をかける。この期間、行者は俗の世界から離れ、寺族とも別の棟に住み、寺族らも完全な精進によって、おまつりにたずさわる。よってこの時期は精進ではない一般の参拝の方は本堂に立ち入ることができなくなる。
定福寺の聖天尊は「いのちつぎ聖天」と言われており、当病平癒ご利益があるとされる。また家内安全・息災延命・商売繁昌・開運福寿等の願いも多い。平成19年16日円壇・天蓋新調厨る修復・氏子・信徒・祈願者のご寄進により奉納される。
御浴油祈祷
浴油祈祷は聖天様の秘法のうち最上の祈祷であります。
浴油についてその伝説に、昔、男天の聖天様がまだ難羅山に陣取って、魔人として様々な障碍をし暴れまわっていたので他の神々から憎まれ毒物を喰わされ苦しんでいたのを女天である十一面観音様が仏法に帰依し善神になるならという約束で、その山中にある油の池に連れて行き、その油を加持して聖天尊の頭に潅がれると、毒物が除かれ約束通り善神となり、十一面観音様と力を合わせて世の中の苦しんでいる者を救う誓願を立て、歓喜双身天となられたといことから、浴油祈祷が最上の祈祷とされ定福寺では、歴代住職が修法を修して受け継がれて参りました。
また浴油祈祷は七日間必ず修法します。この期間中は寺内を清浄にし精進以外のものを口にせず、行者は部屋を別にし各座ごとに沐浴し心身を清めて浴油供を修法します。行者は周りで何が起ころうとも壇を下りることは許されません。
お聖天様へのお供え物
聖天尊の供物で大事なものが大根・歓喜酒・巾着のお団子である。このお団子も作り方が進甲師以来受け継がれ、開白前には信徒の方々の助けを得た後は行者が衣帯を付け仕上げる。結願には開運と福徳をさづかるお供物として祈願者に授けられる。
このように昔ながらの厳しい修法を修しているお寺は大変珍しくご利益があるとされております。全国から御祈願の申し込みが参ります。お申し込みの会った日から七日間毎日御祈祷し全国に郵送致しておりますので御気軽にお申し込みください。
聖天尊とは
聖天尊は、梵名のナンディケーシュヴァラは、本来、歓喜自在天の意味で、それ故に大聖歓喜自在天と漢訳され、略して歓喜天、聖天尊などと呼ばれています。歓喜天は、古代インドにおける仏道修行者を誘惑する魔物ガナパティあるいはガネーシャのことで、魔性の集団であるビナーヤカの王とされています。本来、仏道修行の邪魔をする障礙神であったが、十一面観音様によって仏道に入ってからは、あらゆる障害・困難を排除して仏法を守護する仏となりました。そのため密教においては各種の修法が行われるのに際して、その成就を願うために聖天壇を設けて勧請が行われました。わが国では真言の寺院に祀られ、多くは秘仏とされています。また聖天尊の信仰は在家ばかりではなく、僧侶にも実に強い信仰があります。その信仰もまた、真剣であり如法、つまり法の通りにお祀りすることを特に戒められています。
野本進甲師
天保五年頃長岡郡に生まれる。五台山竹林寺の松窓律師の弟子。明治五年(一八七二)より定福寺住職となる。
定福寺に歓喜天、浴油祈祷、歓喜団を伝える。
明治廃仏毀釈の惨劇は、高知県は全国の中でも大変なものがあり、何百力寺も廃寺となった。当時、定福寺は檀家よりの嘆願により廃寺を免れた。そのお陰で進甲師は定福寺住職を弟子の猪狩真浄師に譲り、豊永の地より旅立ち二十数力寺もの寺院の復興に努められた。最後は同じ宗派の本山町の本山町東光寺において大正九年四月一日に遷化された。
今、定福寺があるのは檀家・信徒の祈りと、先師たちの祈りがあったからである。