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2023.12.28
2023.5.1
5月5日(金)より豊永郷民俗資料館企画展「松浦佐用彦と研究者たち」を開催します。
是非お越しください。
2023.1.5
2022.1.17
2021.1.13
2021.1.13
クラウドファンディングを開始しました。
境内のユニバーサバデザイン化、駐車場増築と運動場併設にご協力をお願いします。
2020.5.27
2016.3.27
2015.2.27
現在はNPO法人豊永郷民俗資料保存会に引き継がれている定福寺がはじめた活動が、高知新聞平成27年2月27日に掲載されました。
2014.11.22~2015.1.18
「四国霊場開創1200年記念 *祈りの道*へ -四国遍路と土佐のほとけ-」で多摩美術大学美術館で定福寺の笑い地蔵と不動明王が展示されました。
2010.12.1
幕末維新の土佐の山間 ~定福寺と豊永郷~
龍馬の生きた時代の土佐の山間の様子を定福寺宝物館と定福寺豊永郷民俗資料館で展示しています。
2002.11.5
聖徳太子立像が四国最古のものと判明しました。
2002.11.5
笑い地蔵が東京国立博物館に展示されました。
2002.11.5
不動明王坐像が江戸時代の仏師清水隆慶作のものと判明しました。
真言宗智山派粟生山 歓喜院 定福寺
定福寺のある豊永郷は、高知県の中で江戸時代以前の中世の文化を色濃く残した郷です。
「豊永」の名前の由来は、九州、熊本県の玉名郡にある豊永に由来すると言われています。
伝来には諸説ありますが、熊本県の小笠原氏と関係するということは共通しています。
『土佐名家系譜』にも記録されています。
長岡郡阿波国境豊永村に豊永氏あり、亦小笠原備中豊永の裔なり、土佐旧説に豊永の地名・豊永の氏名皆其の名にもとづくと称せらる。
小笠原氏なりと雖も、其前今の肥前国松浦郡豊永庄に住し、其の郷名を採りて豊永村豊永姓を称したるもの、承久中といへば今より七百年前で、豊永氏の発姓も古きことなり、兎に角阿波小笠原氏の因縁を慕ふて、茲に投下せしこと疑いもなき事なり。」
『土佐名家系譜』
※承久=1219~21。鎌倉時代
また、『皆山集』には
土佐国長岡郡粟生村定福寺 敬白
明徳二年(1391)十二月二日 源忠恵(源忠頼)
『皆山集』
と書かれた鰐口が定福寺に納められています。源忠頼は、小笠原刑部大夫源頼忠のことであり、小笠原の系譜だということがわかります。しかし、残念なことにこの鰐口は江戸時代の『定福寺什寶帳』に「安永の火災の時に散失した」と記録されています。
九州の熊本県玉名郡の豊永庄の小笠原氏が、高知県の山中に住み、そこを「豊永」と命名したことがうかがえます。
山内家の資料には先祖小笠原越後儀長岡郡豊永惣分領知仕来候由、其後豊永中務代より元親ニ仕、大平・怒田・九次三ケ村ニ而百八拾石余領とあり、JR豊永駅近くにあった豊永城がその居城でした。
実は、山内家が治めていた土佐では、土居付家老として山内家の家臣が各地を治めていましたが、豊永氏のように古豪が上士として古くからの土地を治め続けたのは、豊永郷だけだったようです。
江戸時代、土佐藩が豊永氏に期待したのは、豊永郷を中心に、城下の支配が行き届きづらい山間部・国境の情勢に目配りと農民たちの不満がこらえ切れなくなった時には、一揆百姓たちと藩との仲介役=「押さえ役」となることでした。
その結果、隣の土居付家老が支配する本山郷とは対照的に、豊永郷は中世的な村落の姿を残し、中世や中世以前の生活の風習、民具など多くの文化が色濃く残ることとなりました。
この豊永郷の中心地であった豊永城のすぐ東に位置するのが、定福寺です。定福寺は聖武天皇の神亀元年(724年)に、五台山竹林寺、佐古の大日寺、 平田の延光寺、西豊永の豊楽寺と共に高僧行基によって開山されました。